ローラン・フィニョン氏 死去

http://www.lequipe.fr/Cyclisme/breves2010/20100831_134325_laurent-fignon-est-mort.html

Laurent Fignon氏 死去



元自転車選手、ツールドフランス2度優勝(1983、1984)、50歳の Laurent Fignon氏が火曜日、ガンで死去した。
闘病中でありながら、ツールドフランス2009と2010の相談として活躍。
1982 〜 1993年に自転車選手として活動したフィニョン氏は、ツール2優勝の他ジロ(1989)に優勝、
そのほかにもMilan - San Remo に2度優勝(1988 と 1989)、数々のクラシックで優勝した。
Tour de France 1989ではアメリカ人 Greg LeMondに8秒差で負けた逸話が有名。


2009年6月の自伝、"僕たちは若くて、なんの心配もしていなかった"の中で、
食道がんを患っていることを告白。
Fignon氏は自転車選手のキャリア中にアンフェタミンやコロチノイドを摂取していた。
だが、それは病気とはあまり関連性がないと証明された。
8月31日12時30分、Pitié-Salpêtrière病院で死去。
葬儀は近親者のみで行われると、病院が発表。


☆この間のツールでは、あんなに元気そうな顔を見せてくれていたのに。
でも恐ろしいほどにかすれた声、まだ耳に残っています。




ご冥福をお祈りします。






http://www.lequipe.fr/Cyclisme/breves2010/20100831_151028_hommage-a-laurent-fignon.html

フィニョンさんへのオマージュ動画が↑ここに





http://www.lequipe.fr/Cyclisme/breves2010/20100831_164822_sarkozy-profonde-tristesse.html

Nicolas Sarkozy (フランス共和国大統領


深く、大きな悲しみを表明したい。
彼は驚くべき、桁はずれなチャンピオンだった。
彼はツールドフランス、フランス自転車協会になくてはならない人だった。
伝説のスポーツ選手として、最も素晴らしいページをスポーツ界に刻んだ。
さきのツールドフランスで、彼は情熱と、超人的なエネルギーでコメントしていた。
Laurent Fignon は最も厳しい戦いに正面から挑んだ男だった。
あのとき彼は、尊厳と勇気ある人間的な素晴らしい教訓を世界中に与えてくれたのだ。

François Fillon (首相)


スポーツ面での才能、そして人間としての資質の面でも
Laurent Fignon は近年30年のフランス自転車界になくてはならない人だった。
フランス中をチャンピオンとしての資質で魅惑した後も、
彼はその情熱で、常に正確な分析を与えてくれた。
好感の持てる勇気ある彼の面影を、私たちはいつまでも胸にとどていることだろう。

Rama Yade (スポーツ省秘書)


悲しみで胸がいっぱいです。
フランスはずば抜けが才能を持つ素晴らしい1人の選手を失いました。
私は、さきのツールドフランスで、彼とご一緒する機会がありました。
そして彼が大いなる情熱を持ってコメントし、 (Andy) Schleck と (Alberto) Contadorの対決を喜んでいるのを見ました。
彼は声がかれていました。でも声を気にすることなんてありませんでした!


ツールドフランスに2度優勝した選手と、最後の最後まで力を振り絞り病気と闘い抜いた勇者を、
私たちは同時に失ってしまったと思います。

Jean-François Lamour (元スポーツ大臣)


Laurent Fignon氏の死によって、フランスは今日、スポーツ界のエンブレムと言うべき存在をなくしてしまった。
彼のパフォーマンスは、ツールドフランスの歴史に刻まれた。
他にも数々の勝利を挙げた Laurent Fignonは、魅力ある、そして個性的な、忘れがたいフランクな人物だった。

http://www.lequipe.fr/Cyclisme/breves2010/20100831_165449_blanc-je-suis-triste.html

Laurent Blanc (フランス代表監督)


とても悲しい。
なぜなら、さきのツールドフランスで彼と一緒に過ごす機会があったからだ。
彼が偉大なチャンピオンであることを我々は知っている。
そして彼が深刻な病に苦しんでいることも知っていた。

こんなに早くその時が来てしまうなんて、思いもよらなかった。
追悼の意をここに表したい。


http://www.lequipe.fr/Cyclisme/breves2010/20100831_173954_leblanc-un-grand-champion.html

Bernard Hinault (ツールドフランス5度の優勝者)


悲しみに深く心を動かされている。
彼は勇者だった。
彼は私のように勝利に向かって戦った。
病気に対しても、彼は闘った。だが彼が勝つことはなかった。


彼とのいい思い出しか、自分には残っていない。
たとえ、自転車では熾烈な戦いをしていたとしても、
自転車競技外では素晴らしい時を共に過ごした。
私は常に彼が羨ましかった。
最も困難な時でさえ、生きる幸せに満ち溢れていた。


彼は率直に話しをするタイプだった。
それぞれがそれぞれのやり方で自己表現をする。
だが彼は、敢えて真実を、彼が考えていることを正直に話した(6月Tourmaletで彼らは最後の再会をした)
彼は生前、私に少しだけ自転車に乗り始めていると語った。
それを聞いて、私はこう思った。
«よかった。復帰できて»
だけどそれから・・・

Jean-Marie Leblanc (元ツールドフランスディレクター)


50の若さで人が死ぬことは常に悲しみだ。
彼はフランス自転車界のリーダー的存在だった。
戦後の比類なき偉大なチャンピオンだった。
自転車界で著名な存在だった。


彼の初ツールドフランスから、華やかな中心人物だった。
素晴らしい身体能力を持ち、そして素晴らしい知性の持ち主だった。
若さで多くの勝利をもたらした。
それから、1989年の事件(Greg LeMondに8秒差で2位)から
生彩も、気力も失われた。
これがチャンピオンの人生だ。


個性的な、時には悪い個性でもあったが、賢い人物だった。
率直な物言いをする、自由主義者だった。
時に迷惑な時もあったが、つねに正しかった。
病に対して、身体も精神も非常に勇気あることを証明してみせた、それがフィニョン氏だ。

Lance Armstrong (ツールドフランス7優勝)


Laurent Fignon氏がなくなったことを、今聞いたばかりだ。
彼は素晴らしい友人であり、自転車界の伝説だった。
君がいないなんて寂しくなるよ、Laurent。

Marc Madiot (Laurent Fignonの元チームメート)


ちょっと前から、彼の病状が悪化しているのは聞いていた。
でもこの山岳を彼が上りきると、希望を持ち続けていた。


不幸なことに、上手くはいかなかった。
彼は最後まであきらめない人だった。
妥協を一切せず、出場するすべてのレースで100%のパフォーマンスをする人だった。
仕事を達成することに、すべてをかけれる人だった。
プロ入りしてから、レースでしなければあらないすべてをやり遂げた。
自分にも要求が高くて、チームみんなにもそれを要求する人だった。
ラフだったけど、率直にモノを言う彼を思い出すよ。

Claude Criquelion (元選手)


とても驚いている。
なぜならFrance Télévisionsのツールの放送で彼がコメンテーターとして活躍しているのを見ていたからだ。
スポーツ的な言い回しをすれば、彼がツールドフランスを、いいコンディションで最後まで走りきったと思っている。
よく同じレースを走っていたものだ。
なぜなら僕たちは同じ目標を持っていたから。
アルデンヌのクラシックや、ツールを。


Sean Kellyと彼と僕は、最初の数キロをおしゃべりするために、最後尾を走っていた。
そのせいでときどき罠にかかったけど。
フィニョン、彼hあいい同僚であり、すべてにおいて正しい人物だった。

Alexandre Vinokourov (Astana選手)


あまり彼を知っているわけじゃないし、彼も僕をよく知ってるわけじゃない。
でも自分にとって、彼はBernard Hinault や Eddy Merckxのように、基準にすべき選手なんだ。
彼の France Televisionsでのツールのコメントは、時に厳しかったけど、常に正しかった。
彼の分析は他のものより強いものだった。なぜなら、彼は自分が何を話しているかわかっていたからだ。
彼は自転車競技を愛していた。
だからこそ、彼はこんなにうまく語れたし、批判する、僕たち選手を批判する権利があったんだ。


僕がまだ幼かったころ、URSSの時代、フランスやヨーロッパは遠かった。
だけどLaurent Fignonの名前はみんな知っていた。

David Lappartient (フランス自転車協会会長)


彼はチャンピオンだ。だがあまりにも早く行った人だ。
まだ彼は、個人的に、そして自転車界でも成し遂げていないことが多かったはずなのに。
Laurent Fignonの多大なる才能、戦略、我々のスポーツに残した功績が素晴らしいチャンピオンのものであったと記憶にとどめたい。


彼は最後まで勇者だった。選手としても、病気に対しても。
たとえ彼の声がしゃがれていたとしても。素晴らしいテレビコメンテーターだった。
満足を知らない人だった。
たとえ今年のツールドフランスで、彼の声が最もしゃがれていたとしても、自転車競技に常に正しい分析をもたらしてくれた。
彼のコメントは、常変わらぬ正しさを保っていた。

UCI


自転車界は一人の偉大なチャンピオンを、そして自転車界にその名前を刻印した一人の男を失った。
UNCPはLaurent Fignonが90年代初頭に選手組合を発足するにあたって、中心的役割を担っていたことを忘れることはないだろう。
数年間副会長を務めた後も、彼は常に名誉会員だった。

Bjarne Riis (元Laurent Fignonのチームメート)


Laurent を素晴らしいモデルだと今後も覚えていることだろう。
自転車上で、戦闘的で意欲的だった。
彼は、私のキャリアに大きな影響を与えた。
そして時折、彼の横で数千キロを走ったことを考えている。


彼は疑うべくもない、勇気の人だった。
自転車界で最も偉大な選手の1人。
そして最も知識あるオブザーバーの1人だった。

Pat McQuaid (UCI会長)


彼の病の重さは知っていた。
先のツールドフランスで彼が見せた勇気と力を素晴らしいと思う。
彼が戦いをやめることはなかった。
UCIとすべての自転車界はこのニュースを深い悲しみを持って受け止めている。
模範的な戦いの姿をこれからもずっと記憶に留めていたい。

http://www.lequipe.fr/Cyclisme/breves2010/20100831_202243_frain-il-etait-assez-farceur.html

Frain : «彼はかなりいたずら好きだった)

作家のIrène Frain はLaurent Fignonの元文学教授。

Irène Frain


自分にとって、Laurentは6歳の若い姿のままだ。
左の前から5番目にいて、明るいウールの赤のセーターを着て、青い目をした。
彼はかなりいたずら好きだった。
チューインガムを噛みながら、2時間居残り。
20年後だと思うが、彼は同じように語っていた。
«Irène Frain は厳しい先生だけど、正しい»

彼の登録カードを見て、私は驚いた。
なぜなら他の生徒たちは備考欄に何も書いていなかったから。
彼のカードには、自転車が書いてあった。


最後の時を、胸が締め付けられる思いで送っていた。
彼の病気の転移を。
彼の声を聞くと、酷く悲しくなった。
そして彼と若い時を分かち合った時の思い出のフィルムを私は回して、浸った。





http://www.lequipe.fr/Cyclisme/breves2010/20100831_152612_les-reactions.html

Alain Gallopin (スポーツディレクター)


今日、私は1人の兄弟を失った。
最後まで、戦い抜くのを見守った。
昨日朝、まだ彼が闘っているのを感じていた。
彼は治療法の指導を受けていた。


そのあと、彼の容体が悪化、そして心停止。
今朝(火曜日)、戦いが終わったと感じた。
昨日(月曜日)午後、彼はまだ意識があった。
誰がそこにいるかも分かっていた。
サインで話をしていた。


皆は彼の死の準備をしていた。
なぜなら1年半前から、試してみた多くの治療法はすべて上手くいかなかったからだ。
2週間前、彼は肺炎を合併して入院した。
容体はどんどん悪化していった。


彼は最後まで威厳ある姿だった。今までそうであったように。
出来る限りを彼は尽くした。
1年半前、彼が私にガンを告白した時、彼は私にこう言った。
''どちらにしろ、私は死を恐れていない"

Laurent Jalabert (元選手、France Télévisions相談役)


完治の難しい病気にかかった人が、困難を乗り越えられないのではと私たちは常に恐れている。
そして私はショックを受けた。動揺させられた。
なぜなら、正直言って、ツールの後、彼が回復していると思っていたからだ。


彼とは自転車選手時代、肩を並べて走っていた。
彼は偉大なチャンピオンだった。
フランステレビジョンでここ4年間、 Laurentと一緒に仕事ができ、彼の人間的な資質を感じられて、
とても幸せだったと思っている。

Greg LeMond (ツール3度の優勝者)


自分にとって、彼は本当に個性的な人だった。
ちょっとショックを受けている。
彼はあまり多くを語らなかったし、プライベートを重んじる男だったが、頭のいい男だった。
彼が好きだ。彼は自分に正直だった。
自分にとって、彼はここ35〜40年で最強の選手の1人だった。
1989年、自分がポディウムの最上位に立った時、彼に申し訳ないと感じていた。

Christian Prudhomme (ツールドフランス ディレクター)


フランス自転車界の偉大な人物だった。
人類といってもいい。
キャリアを多くの成功と、そして1989の敗戦で飾った。
2度のツールの優勝(1983, 1984), 2度のMilan-Sanremo (1988, 1989), Flèche Wallonne (1986), ナショナルタイトル (1984)...
率直に物事を話す性格だった。
そして30年間、嘘をつくことはなかった。
選手、運営委員会、相談役。
物おじせずに、率直に語った。
彼は攻撃的自転車競技の化身ともいえる。
さまざまな角度から絶え間なく、高潔なアタックを繰り広げた。
プロ入りしてからすぐ、彼はブロンド、○メガネ、知的な評判で名をはせた。
彼はカリスマだった。

Richard Virenque (元自転車選手)


ツールドフランスや他のレースにおいて、キャリアで出来る限りのパフォーマンスで彼の時代を作り上げた人物だ。
彼はカリスマ性で自転車の歴史に名を刻んだ。
ポニーテール、振舞い方、話し方・・・型にはまらない選手だった。
そして口がたった。
結果はさることながら、彼のスタイル、彼の話しかた、Fignon は自転車界の重要人物だった。
自転車界で彼がやってきたこと、フランス自転車界に彼がもたらしたことを考えれば、
彼を尊敬することしか、人はできないだろう。

Cyrille Guimard (Laurent Fignonの元スポーツディレクター)


凄く悲しい。
スポーツ界においても、人間としても。
Laurent と素晴らしい勝利の数々と、素晴らしい敗戦の数々を共に分かち合ってきた。


素晴らしい忠誠心の持ち主だった。
1985年、Renaultがスポンサーを降りた時も、彼は裏切らず、私とともに新たなスポンサーを探すために共に戦った。
多くのことを分かち合ってきた。
数人の選手が、自分にとってとても大事だった。
その中にBernard Hinaultと共に、彼が含まれている。


感受性豊かな男だった。
そしてとても内気で、ちょっとコンプレックスを抱えているような。
傲慢を装って、自己防衛していた。
1989年の負けは、彼に大きな人気をもたらした。
今日、自分にとって、それはもう自分にとって大事なことじゃない。
なぜならもう彼はいないのだから・・・


☆ざっと初見で訳したので、間違え多いかも・・・
ともかく凄い量。
でもストレートな言葉の数々、まっすぐに胸を打つ気がします。。。



☆追記

今年のツールドフランスでのフィニョンさん

伝説の1992年第11ステージ